柿田のこだわり絵本

「これらの本を手に取ると、ついつい語りたくなってしまうんだよね」柿田のお気に入りの絵本です。

(柿田友広)



いいこってどんなこ?
ジーン・モデシット文
ロビン・スポワート絵
もきかずこ訳
21×21cm 32p
  • いいこってどんなこ?/モデシット
  • 1,200円+税(8%税込1,296円)
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今の子は「よい子ストレス」なるものがたまっていると言う。親の期待を背負い過ぎて、途中でちょっとグレたりして空気を抜くことなしに大人にさせられそうになる。どうやら、見た目はよい子に育っていたが、十七歳位で自己破壊をおこしてしまうというケースが増えているようだ。

この絵本のテーマはそういう時代にあって、大胆なまでにストレートだ。結論はどんなだろうとつい読んでしまう。ターゲットは、もっと低年齢の幼児か、読んでやる側の親である。結論はもちろん、今のまんまがいいと言うのだ。どうして、わかりきっているはずなのに、この結末にやはり安心する。こんな単純なテーマの本を書く方も書く方である。そう捨て台詞をはきたくなるほどあたりまえすぎるのだが、うまい。絵もあまりに魅力的で、つい自分のものにしたくなる一冊だ。うさぎの親子は終始、目と目を合わせている。これは見落とせないディテールであり、私たちが日頃、忘れがちなことを教えてくれている。

さて、日本語の「いい」には許可を求める「いい」とよりよいという意味の仮定法の「いい」があるが、この絵本は当然、後者の「いい」が使われている。このうさぎの親子が、横並びのいい関係でいるのは、この点に大きな理由があるに違いない。




あくたれラルフ
ジャック・ガントス作
ニコール・ルーベル絵
石井桃子訳
22×23.5cm 48p
  • あくたれラルフ/ジャック・ガントス
  • 1,500円+税(8%税込1,620円)
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私は、こういう絵本が、子どもの本として存在していることに、まず感激してしまう。だって、ラルフは本当に悪たれで、全然かわいくないのだから。でも、家族は、皆ラルフを愛しているのはどういうわけだろう。

私たちも、考えてみれば、他人の子はかわいくない(?)のに自分の子はかわいい思うのは、全く不思議なことなわけだ。

だが、さすがのセイラ(主人公の女の子で猫のラルフの実際的世話役)も「ときどきあんたをかわいいとおもえなくなるわ」と言う。この時のセイラの目はちょっと「行って」るネ。

私たちも、子育ての現実の中で、こんな気持ちになる時がある。セイラの家族がしたように、サーカスに置いてきちゃおうと思うことだってある。だが、本当に見捨てたわけじゃないから、やっぱり探しに行くだろう。セイラはボロ服をまとった「なまごみねつ」にかかっているラルフを助け出し、「いつまでもあんたがだいすき」と言う。お父さんも「おまえがいなくてさびしかったよ」なんて言う。この二つの言葉は日本人はあんまり口にしない言葉なわけだけど、ラルフを救う。ラルフは、「もう二どとあくたれはしまい」と思わせるのだが、性格は急に変わりっこないわけで、結末がやっぱり悪たれるラルフで終わってる。で、つまりそこが、この本のスゴサと言えるネ。




あかちゃんのえほん《全5冊》
ヘレン・オクセンバリー作
15×14cm 各16p
  • あかちゃんのえほん5冊/ヘレン・オクセンバリ-
  • 2,000円+税(8%税込2,160円)
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ヘレン・オクセンバリーの絵本にはどことなく人間を斜めに見ている視点を感じる。同じく絵本作家の夫ジョン・バーニンガムが楽天的に人間賛歌をしているのと対照的に。点数やヒット作ではご主人の方が多いが、私はどうしてもヘレンのファンだ。

さて、今回紹介する絵本は赤ちゃんの日常をテーマにした5冊が箱入りセットになっているものだ。この箱からして実にすがすがしい。そして、箱から取り出す時のワクワク感。『あそび』ではおもちゃや本が登場する。『しごと』は食べること、排出すること…。『ともだち』では動物達との大きさの対比に終始している。『したく』は服を着る様が順を追って描かれている。ソフトベビーよろしくハゲ頭(西洋人の赤ちゃんに多い様だ)に帽子がのっかってる最終ページは抱きしめたくなる。『かぞく』の最後は少し毛のある従兄弟か誰かと目線を合わせている。何が始まるのか想像たくましくしてしまう。

ここに登場する子にはまだイタズラが始まる前のエネルギーを内に秘めた可愛さを感じる。ただ甘ったるい表面的な「可愛い」子ではないが、そこがいかにもヘレンらしい。〈あかちゃんのほん〉というタイトルとは言え、これを手にして喜ぶのは赤ちゃん当人よりむしろ子育て中の大人かもしれない。私はヘラー社のモビールやネフ社のおしゃぶりと共に出産祝いと混ぜてこの本を贈ることをお薦めする。赤ちゃんの弟・妹のいるお兄ちゃん・お姉ちゃんにも受けるかもしれない。




くんちゃんのだいりょこう
ドロシー・マリノ文/絵
石井桃子訳
26×19cm 35p
  • くんちゃんのだいりょこう/ドロシー・マリノ
  • 1,000円+税(8%税込1,080円)
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私がこの絵本に出会ったのはまだ独身の頃だった。しかし、漠然とだが、こういう親になりたいと思った記憶がある。このくんちゃんの親の様にである。子どもを温かく見守っていて、言葉で解らせてしまおうというのでなく、失敗を体験させてくれる。おとうさんぐまの決定的な「やらせてみなさい。」の一言がいい。

見開きからすでに物語が始まっているかの様だがこれはくんちゃんの家族の紹介と言ったところ、次で双眼鏡等が出てきて冒険を予感させ、次で鳥たちや松の木が舞台のように描かれ二度目のタイトルが出る。ここまでが伏線である。心憎いばかりだ!いい絵本ってーやつは(たぶんいい映画もそうだが)ここでもうちがう。

そして、いよいよ始まる、なんとも心地よい夫婦や親子の会話が。くんちゃんの絵本のシリーズは他にも六冊出ているがどれも期待を裏切らない。まずは子どもの欲求を納得の行くまでやらせ満足させている(『くんちゃんのはたけしごと』だけは子育ての現実が見えてきて、はらはらするところがあるが、実にうまい結末に持っていく)。日頃、欲求を満足させてもらっている子どもは、このくんちゃんの様におおらかだ。今読んでも、この絵本には子育ての原点が描かれていると思う。

絵は最初から二色刷を想定して描かれているのだろう。シンプルさがこれらの物語を一層引き立てている。




シャーロットとしろいうま
ルース・クラウス文
モーリス・センダック絵
こだまともこ訳
17×13.5cm 18p
  • シャーロットとしろいうま/クラウス
  • 750円+税(8%税込810円)
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この絵本は、シャーロットという女の子がまっしろい馬の赤ちゃんに「あまの川」という名前を付け、育てる話。

「私のほしかったのは普通の子馬よ。」とシャーロットが言う。「ライオンも消防自動車もほしくなんかないわ」という言葉は、「男の子はそんなものほしがるけど」という意味にもとれるが、「何かに役立つわけではない」という意味にもとれる。普通のという言葉は”難しい”言葉だが、ここでは「役に立たないが」という意味を強調しているかに聞こえる。なぜなら、その後、お父さんが「競馬うまにはなれそうにないよ」というくだりがあり、弟の学費のため売ることを持ちかけてくるから。シャガール風の色使い(センダックは同じユダヤ人のシャガールを尊敬していた)で、シャーロットの嬉しい気持ちが表されているが、馬を売る話になった所だけ、無彩色になる所に注目してほしい。シャーロットがどんなに悲しい思いをしているか。やがて馬が一歳の誕生日を迎える時、まわりの皆も祝福してくれ、名前を呼んでくれる。すると・・・。

馬と女の子の関係が実にいい。そして、これをとりまく周りの人たちとの関係が次第に出来あがっていく様子がみごとに表現されている。手のひらサイズの宝石のような絵本。センダックの本はみなそうだが、見開きから、本文に入るまでのアプローチが長くて、もったいぶった感じがまたうれしい。




まどのそとのそのまたむこう
モーリス・センダック作/絵
わきあきこ訳
24×26cm 40p
  • まどのそとのそのまたむこう/センダック
  • 2,000円+税(8%税込2,160円)
  • 品切れ。入荷未定

センダックの絵本三部作といえば『かいじゅうたちのいるところ』に『まよなかのだいどころ』と今回のこれである。いつも、自分自身の内面と向き合って絵本づくりをしていて、批判されようが、売れなかろうが(案の定これもしばらく再販未定中である)、おかまいなしかに見える。特にこの絵本はおどろおどろしく、一般的な「絵本」のイメージからかけ離れているが、それがまたセンダックの魅力だ。

この絵本は、聞くところによると、センダックのまだ母親の胎内にいた時の記憶をたどって書いたという。そういう風に記憶力のいい人は時たまいるらしく、かの石井桃子さんもそうであったそうだが、そういう人は、また、絵本や児童文学が書ける才能を持っているという事らしい。ストーリーは『あさえとちいさいいもうと』(筒井頼子作、林明子絵)と偶然なのかそっくりで、子守をお母さんに頼まれた姉さんが目をはなしたすきに妹がいなくなってしまうというものだ。

我が子に読んでやった記憶では、不思議なくらい人気の本だった。絵本や児童文学は子どもに読んでやると二倍も三倍も楽しめるものであるが、この本の場合もご多分にもれず、大人だとどうしても絵を(文章より特に絵を)読みとる力が弱っているところを、子どもは全身で絵が発している超現実的な物語やメッセージを読みとっているらしく、それが読み手の大人にも伝わって来て気持ちがよかった。

さて、例によってセンダックらしくこの絵本にもなぞがたくさん隠されている。例えばモーツァルトは何を意味しているのか・・・等々。

なにはともあれ、本でもおもちゃでも子どもに媚びたものがひたすら氾濫する中、こうした出版に心から敬意を表したい。




かえるの王さま
グリム童話 ビネッテ・シュレーダー絵
矢川澄子訳
32×24cm 26p
  • かえるの王さま/ビネッテ・シュレーダー
  • 1,800円+税(8%税込1,944円)
  • 品切れ。重版未定

昔話を買いに来るお客さんとしばしば行き違いがおこる。幼児だから絵本をとおっしゃるが、映像が逆にイメージを狭めることがあるので読み物からとこちらは思う。だが、「まだ絵がないと」とおっしゃるし、結局こちらも買って頂けるのならと折れる。だが、そういうお客さんに限って、よく知られた昔話をご指名だ。例えば『かえるの王さま』を絵本でとくれば、私はどうしたってこのシュレーダーのやつを薦める。ところが、この画風はそういう素人(失礼)さんにはまるっきりうけない。だが、こちらとしてはこれほど話の本質をとらえた絵はなかろうと思っているのでついつい力が入ってしまう。

この昔話はグリム童話の最初の話でいきなり結構エッチな話。この意味で思いっきり〈昔話している〉と言える。しかし、子どもの時は決してそのエッチさに気付くことはない。表層は美しい話だが、人間のどろどろした欲望や、弱さ、醜さなんかを隠し持っているという訳だ。それこそがメルヒェン(=童話)がメルヒェンたる所以である。大人は深層の心理なんか推測し、心の中でにやにやしながら子どもに話す。そこが昔話を語る醍醐味である。素話では王子さまのかけられていた呪いがどれほどすさまじかったかなんて思いも寄らないが、このシュレーダーの絵本を読むとそこに思いが行く。つまり絵本としてはここが見せ場だ。こうした感情移入は本来昔話には不必要なものだが、逆にいうと、絵本にはこういう部分が画家の力量で描きこまれることが求められる。その分昔話絵本の対象年齢は高くなり、お客さんとの先の様な行き違いもおこるのだろう。ちなみにこの絵本、忠臣ハインリッヒがトップページにも登場、辻褄を合わせている。こういう仕掛けを探すのも絵本を読む楽しみの一つだ。




ティリーのねがい
フェイス ・ジェイクス文/絵
小林いづみ訳
24×19cm 30p
  • ティリーのねがい/ジェイクス
  • 1,200円+税(8%税込1,296円)
  • 買物かごへ

ドールハウスの人形が生きているかのように登場するお話としては、真っ先に思い出すのはルーマ・ゴッデンの『人形の家』だろう。人形達が一生懸命「願う」姿は印象的だった。絵本ではミルズの『ペギーのちいさな家』があった。折りたたまれたページを開くとちょうどドールハウスを開ける様に家の中を見ることが出来る仕掛けが面白かった。

さて、今回紹介する絵本『ティリーのねがい』は絵がとにかく魅力的だ。細部まで几帳面に描かれていてごまかしがない。ストーリーの方も然り、キビキビとした構成だ。ちょうど勝ち気で人生に前向きで、思いついたことをどんどん行動していく主人公そのものだ。ドールハウスの中でメイドとして働いていたティリー、毎朝五時に起き料理番にあれこれ指図されながら食事の支度をしている。だのに「有り難うの一言もない。」もう、うんざりだ。そして、とうとう家出を決意する。

夫婦だろうが親子だろうが「ありがとう」がなくなったら関係は終わりである。アドラー心理学を待つまでもない。それにしても、ここでぬいぐるみのくまのエドワードを登場させる所がいい。彼のおっとりとした性格はティリーと正反対なのだが、この二人がまるで仲のいい夫婦の様なのだ。彼のお陰で新しい家も見つかり、ティリーはそこでもうひとがんばりして新居をきれいに整える。くまもけなげに自分が役に立ったことを素直に喜んでいて微笑ましい。

続編『ティリーのクリスマス』と合わせてお読み下さい。




おおきな おおきな おおきな かぶ
トルストイ文
オクセンバリー絵
19×21cm 32p
  • おおきなおおきなおおきなかぶ/トルストイ
  • 1,200円+税(8%税込1,296円)
  • 品切れ。入荷未定

ひょいと娘の小学校の教科書を見ていたら、佐藤忠良画、内田莉莎子訳の「おおきなかぶ」が載っていて「おじいさんがかぶをうえました」の所が「おじいさんがかぶのたねをまきました」に変えられていたのでびっくりした。学校の教科書は著者に許可なく原作を変えてもよいらしいのだが、それにしても、この文豪トルストイの文章を変えて何が教育なのか。内田さんは生前、原文をどう解釈しても蒔くという風には訳せない、トルストイが伝えたかったのは一つのかぶの種を手で大事に植えたということではないかとおっしゃっていた。

さて、誰でも知っているこの話、私はその佐藤忠良版も大好きだが、今回紹介するヘレン・オクセンバリー版に出会って、画家と絵本作家は違うんだなとつくづく思った。佐藤の絵は一つのアングルから描写しているので安定感があり小さな子が見るにはこういう絵がわかりやすいと思うが、オクセンバリーはアングルを横にしたり上にしたり、遠くからやら近くからやら…、その変化だけでも退屈させない。おまけに手伝いを頼みに行く際、おじいさんがおばあさんを呼びに行く時はおばあさんを大きく(つまり手前に)、おばあさんが孫娘を呼びに行く時は孫娘を大きく描いている。つまり、ものを頼むときは、頼まれる人の方が気持ちが優位にあるって事を絵で表現してるんだね。普通、猫はネズミにお願いしたりしないだろうけど、ネズミをこんなにでかく描くといかにもありそうな気がしてくるから不思議だ。

この話、かぶが抜けた場面が頂点で、すごい快感ある。内田さんも力説されていたが、文学ってのは感想を言わせたり、余分な解釈などせず、「ああ面白かった」で終わらせたいものだ。




ものぐさトミー
ペーン・デュボア作
松岡享子訳
20.5×17cm 44p
  • ものぐさトミー/P・デュポア
  • 880円+税(8%税込950円)
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絵の感じからして、どうしてもひと昔か、あるいはもっと前の本かと思えば、日本で出たのは1977年とある。とすると、この四半世紀の間にいかに急速に世の中が変化したかということだろう。これって、鉄腕アトムの胸に真空管が入っているって知った時の感覚と似ている。(21世紀生まれのロボットに真空管はないよなぁ)けれども、テーマは自動化されていく事の方にあるのではなく、それに頼る人間の怠け癖の方にあるから、この本はちっとも古くならない。ちょうど『パパラギ』がいつまでも新鮮なのと同じだろう。

主人公のトミー・ナマケンボ(この名字の日本語訳が絶妙)は自動化された家に住んでいる。起きるのも、お風呂に入るのも、歯を磨くのも、服を着るのも、食べるのも、みんな機械がしてくれる。ただ一つトミーがしなければならない労働は階段を上ること(考えてみると、どうしてこれは自動化されないのか笑える)。ところが、ある夜かみなりがなり電気がこなくなり、七日たってまた電気がくると…。電気歯ブラシに足の裏をこすられ「くすぐったくて、くすぐったくて、トミーは、まるでひきつけをおこしたように笑」う。ここは話のおかしさの頂点だが、「なまけん坊の罰があたったのさ」と読者の方は主人公にあくまでも冷酷になってしまう。そういう風に物語をすすめていくところが作者の才能だろう。でも、所詮、誰でも自分に心当たりがある話。最後まで駄洒落を言ってすましているのがいい。

さて、この本のシリーズ「岩波の子どもの本」には、少しでも安く絵本の名作を子どもに届けたいという戦後の文化人の「良心」をみる思いがする。




きりのなかのサーカス
ブルーノ・ムナーリ作
21.5×21.5cm 52p
  • きりのなかのサーカス/ブルーノ・ムナーリ/谷川俊太郎訳
  • 2,300円+税(8%税込2,484円)
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ムナーリの絵本として最も有名なこの本、以前は好学社から八木田宣子さんの訳で出ていましたが、絶版となって久しく、入手が難しいものでした。もちろん、イタリア語版や英語版もありますが(当店でも取り扱っています)、子どもに読むにはやはり日本語、それもきちんと訳されたものを待ち望んでいました。

そしてついに、なんと谷川俊太郎さんの訳で登場しました。文字の位置や、紙の色などもイタリア語版とほぼ同じです。これ以上のものを望むのは難しい、まさに決定版と言えましょう。

ちなみにですが、ムナーリの版権を持つイタリアのコッライーニ社では、他言語版も自社で印刷することが多くなっています。品質の確保が大きな理由のようですが、今回の「きりのなかのサーカス」も、全ての印刷工程をコッライーニ社の監修のもと印刷で行っているそうです。

(佐々木)

想像力をかき立てる絵本である。「その日は霧だった。ぼくは歩いてサーカスを見に行く。霧の中を歩くのは、自然が見ている夢の中へ入って行くようなものだ。・・・」と書けば、これは只の文学にすぎないのだけれど(いやこれでも相当なものかもしれないが)、ムナーリはこの部分にトレーシングペーパーを使い、先が半分透けることで霧の中を歩いていく雰囲気を表現しようとした。

文学というのは、目で字を追って、その後私たちはそれを脳の中で聴覚的な言語に置き換えているのである。絵本はそこに視覚による言語を加えた。コールデコットの時代にそんな革命的な事が実はおこっていたわけだ。ムナーリという人はさらにそこに触覚的言語を持ち込もうとしたのではなかろうか。いわゆる仕掛け絵本を作りたかったのではなく(仕掛け絵本の多くは二次元的視覚表現に飽きたらなかった)、もこもこしたものをページに張り付けた触れる絵本作ろうとしたのでももちろんなく、触覚を含む視覚を越えたものを言語化しようとした。

この『きりのなかのサーカス』という絵本は実はモノクロの絵本であることに気がつく人はほとんどいない。真ん中のサーカスの場面の二十八ページは赤、黄、青といった色が出てくるからなのだが、これは紙の色である。いや、色だけではなく紙の材質もわざわざ換えている。この辺がムナーリの表現上のこだわりなのだ。

さて、話をまとめてみよう。私たちの生活を豊かにしてくれる現実とは違うもう一つの世界。この絵本はそこにしずかに連れていってくれる。文字以外の表現がそれを導いてくれる。

(柿田)

Au grand cirque de Bruno Munari(フランスのサイト)で、この本の一部を見ることができます。




ねえ、おきて!
さとう わきこ作
25×22cm 32p
  • ねえ、おきて!/さとうわきこ
  • 1,300円+税(8%税込1,404円)
  • 品切れ。入荷未定

さとうわきこという人は作家でありながら絵も描いてしまう、絵本美術館を経営してしまう、ホフマンやフィッシャーの埋もれた絵本なんかを世に出してしまう…という多才ぶりである。が、その源はやはり作家=お話作りにあると思う。それを如実に顕わしているのがこの初期の絵本である。実に単純、そして明解。いち早くねむってしまったネコ君をイヌ君は手を変え品をかえ起こそうとする。どんな手を使ったか、そうまでしてネコ君を起こしたかった理由は何だったのか、可笑しい。これをテーマに授業をした小学校の先生がいたとか。その先生もさぞやユーモアのある方に違いない。

この絵本、よく見ると右ページは字、左ページは絵という構成で、途中から右ページにも少し絵が登場する。右ページの絵は左ページへの時間の経過を表すために使われ、さらに枠の中・外としても使われる。「絵本」がよく解った人だと感心してしまう。こんな解り方をしている人は日本の絵本作家にそうはいない。

さとうわきこは、若い頃病床で落語をさんざん聞いたそうだが、この話はまさに落語の小話的手法を使ったもので、以後もそうした作品が多い。ここで登場するイヌ君・ネコ君のキャラクターも、大ベストセラーばばばあちゃんシリーズにも出てくるし、この作品はやはりさとうわきこの絵本の原点と言えるんじゃないだろうか。




ぎょうれつぎょうれつ
マリサビーナ ・ルッソ文/絵
青木久子訳
26×21cm 24p
  • ぎょうれつぎょうれつ/マリサビーナ・ルッソ
  • 1,300円+税(8%税込1,404円)
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絵本の中におもちゃが登場すると商売柄ついそこに目がいってしまう。この絵本に出てくるおもちゃは、しかし、平凡である。文字の積み木なんかいきなり出てきて苦笑してしまう。乗り物が好きらしい。だが、素材は木ではなさそうだ。日本の家庭ならここに○○マンやキャラクター商品のオンパレードになりそうなのだが、その点は割と牧歌的なロボット一つだけで助かる。

これらのおもちゃからアメリカの平均的家庭かなと推測できる。そして、テーマも日常的だ。お母さんが「ご飯だよ。」と呼んだらすぐ来て欲しい。ただそれだけである。しかし、子どもはすぐ来ない。少年はそれらのおもちゃを並べ、ぎょうれつごっこをしながら台所に向かう。最後は自分自身もぎょうれつに加わる。この遊び心がこの絵本をすがすがしいものにしている。全く子どもは遊びの天才である。だが、親の立場からすればそれを全て認めるわけにはいかない。その辺の親子の葛藤がおもしろい。どちらも譲らない―というかどちらかというとおかあさんが勝っている。でも、よく読むとこのおかあさんは子どもの心理をよく知っていて、「見て 見て。」と言ってくる子どもをちゃんと見ているし、「ほんと、すごいわね。」なんて子どもを励ます事も忘れない。その上で親の都合を伝えているから旨くいく。いきなりカッとなったりしない「なかなか出来る」お母さんである。




まさかりどんがさあたいへん
かこさとし作
19.5×27cm 31p
  • まさかりどんがさあたいへん/加古里子
  • 1,300円+税(8%税込1,404円)
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「ぼくの絵本ベストワンはこれ」と我が子が言う。彼の最近の絵本ランキング堂々一位に輝いたこの本は、まさかりをはじめとする日本の伝統的な大工道具や裁縫道具、西洋から入ってきた電気工事の道具などがなぜか動き出し、ピアノとロボットの演奏者を作って、自分たちのためにコンサートを開いてしまうという奇想天外な話だ。初めて読んでやったのは年長の頃だったのだが、それからずっとそれほどまでに好きだったのか、それとも一人で読むことも多くなった最近じわじわとランクを上げたのかは定かではない(ちなみに今は小四である)。作者の加古里子という人は科学者であるそうだが、私が子どもの時すでに『からすのパンやさん』や『むしばミュータンスのぼうけん』などで「日本を代表する絵本作家」の地位にあった人だ。ということは、今はかなりのご高齢のはずだが、最近も精力的に絵本を出し続けていて頭が下がる。その発想は相変わらず若々しい。科学と文学が融合した作風は加古作品を親しみやすくしている。口調がよく、読みやすい言葉も、さらに加古自身による絵も、うまい下手を超え、日本の風土に根ざしていることは見逃せない。外国人に受ける「日本趣味」ではないが、「日本の土着」という感じがしてグッとくる。

さて、この本はいわば道具の本である。道具のそれぞれの使い方が解るようになっている。「ちょうな」「よき」なんて、よほどの専門家しか知らないものまで、加古さんの手にかかると解ったような気になるから不思議だ。子どもの心をつかむ加古さんの奥の深さがにじみ出てくる絵本である。

本・絵本