雑誌「げ・ん・き」60号より

おもちゃそのものがわたしの人生
クルト・ネフさんに聞く

以下の文章は、2000年に柿田がクルト・ネフさんの自宅を訪ねてお話を伺った際のインタビューです。雑誌「げ・ん・き」60号(2000年6月24日発行)に掲載されたものですが、クルト・ネフさんの生誕100周年を記念して、公開することにしました。

フランスで大嵐があったというニュースが報じられて間もない2000年2月1日、私は質の高い積木のメーカーとして知られている、スイス・ネフ社の創始者クルト・ネフ氏をバーゼルに近いフランスの自宅に訪ねました。

嵐は予想以上に凄まじかったようで、レンタカーで走り抜ける国道の脇にも、木がなぎ倒されている光景に何回かぶつかりました。

会社経営の第一線を退いたネフさんは、ここに古い農家を買って住んでいます。いくつかある部屋は、どこも広く美しいだけでなく、置かれている家具や置物も選び抜かれたものでした。ネフ社で作られた全てのおもちゃが置かれている部屋もありました。 まさに、ここは、ネフの博物館か美術館といった感じです。

私がネフさんを訪ねたのは、ネフさんのことをはじめ、ネフ社のことやキュービクスなどの積木のデザイナーであるピエール・クラーセンさんのことをお聞きしたいと思ったからでした。 ネフさんと私は、暖炉のある部屋で夜まで語り合いました。ドイツ語は「物語り」と「歴史」が同じ言葉です。ネフさんの話は、まさにネフさんの歴史だといえるでしょう。

農場での遊びと手伝いが原点

−ネフさんのおもちゃの原体験から聞かせてください。

わたしは、スイスのフラウエンフェルトというところに、1926年5月4日に生まれました。私の両親はエプティンゲンで小さな農場を経営していました。そこには動物たちもいっぱいいました。

その自然豊かな環境の中で、素晴らしい少年時代を体験させてもらいました。小さな子どもの時、農場での仕事をしたりして両親を手伝っていました。 そのとき出会った道具が、私にとってはまさにおもちゃだったんです。私はそこで、それらの扱い方を学んだり、遊びと仕事をうまく結びつけていたというわけです。この時の体験は後の人生にいつも役に立ちました。

私の子どもの頃には、おもちゃというものはほとんど売られていませんでした。私の父は私のために簡単な木のおもちゃ―――家畜小屋とか、動物とか、作業用の車など農場での日常生活にかかわるおもちゃを作ってくれました。 中でも、私の一番好きだったおもちゃは、母が台所で料理をするために必要な薪を運ぶための車でした。私は母のためにその車でお手伝いをしたのですが、それは「自分が他人の役に立っている」という、誇らしい満足感をいつも伴っていました。

今、私たちには四人の孫がいます。孫たちが私たちを訪ねてくると、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に、花や野菜を作ることをしたいために、畑の道具が取り合いになるほど人気です。 孫たちは町育ちだったので、そういったことが新鮮なのでしょう。家の中ではネフのおもちゃで集中して遊んでくれますが、ここには少しおもちゃがありすぎますね。

私の頭の中は、いつも新しいおもちゃのアイデアでいっぱいです。新しいアイデアは刺激や偶然から生まれます。市場にはすでにおもちゃがたくさんあるので、その隙間を探して発明することをよくします。 電気仕掛けのおもちゃが大量に出回る今日においては、新しいおもちゃをマーケットに送り出すことは非常に難しくなっています。たくさんのおもちゃが子どもの要求というよりも金儲けのために作られているというのが現状です。

―「ネフのおもちゃ」はどうやって生れたのですか。

私はもともとは家具職人です。マイスターの資格試験を受けるために勉強し、それからインテリアデザインのためにバーゼルの家具専門学校に行きました。そして家具の会社で、家具デザイナーとして四年間働きました。

その会社は、伝統的なスタイルにのっとっていたのですが、私はお客さんにモダンなアイデアを示して興味を起こさせようと試みました。その試みは時間が経つにつれて、特に若い人に受け入れられました。

それはシンプルで実用的な家具であり、ステータスを満足させるというよりは、役に立つことを目的としたものでした。

それから私は、1954年にネフという自分の会社を設立して独立したのです。オリジナルデザインの家具や、モダンな美術工芸品を売りました。

その頃、主に若いお客さんたちは、「子どものことを忘れちゃ困る、質が高くて時代に即した子どものためのおもちゃをデザインして作ってくれ」と私に頼んできました。 結局それが後の人生の試金石となり、私のライフワークとなっていったわけです。その時の最初のおもちゃがネフスピールであり、ベビーボールであり、カウリングでした。

私は妻と一緒に会社をさらに進めていきました。ネフ社は最初は二人きりの企業だったわけです。でも、私のしていることに最初から興味を持った人はあまり多くはいなかったので、苦労しました。当時、財政上の悩みや売り上げの問題は日常茶飯事でした。

需要が増えていくにつれて、ネフ社は徐々に発展していきました。スイス国内からも外国からもおもちゃに関心を持ったお客さんが大勢来てくれました。その頃「スピールネフ」という社名で販売していたのです。

日本のアトリエ・ニキティキは非常に早くからのお客さんです。1965年でしたか、西川社長が訪ねて来て、日本の代理権の申し込みをしました。とても気持ちが通じ合い、信頼関係は今もずっと続いています。

ところで、フランスに出張したとき、非常にデザインの優れたものばかりを置いてあるきれいなお店を訪ねたことがあります。 そこで私は自分の商品を売り込もうとしたのですが、私がネフだということを知らないその経営者は、「うちはネフのおもちゃしか扱わないよ。」と言って、追い払おうとしたんです(笑)。

また、初めは、財政上の理由で、白黒カタログしか作ることが出来ませんでした。しかし、会社のイメージをよりよくするために、質の高いおもちゃに合った新しいカタログを作った方がいいと提案してくれるお客さんがいました。 これがよく知られている、カラーのネフカタログの始まりでした。

そして、設立後八年くらいしてから、経済的によくなってきて、自分の生産工場の場所をツァイニンゲンに建てました。

ネフスピールは、いろいろ試行錯誤した結果生まれました。私は全てを同じ分割にすることにこだわり続け、今の形になりました。少しの変更以外(注1)、ネフスピールは時間がたってもあまり変わりませんでした。その後デザインは変わっていません。

ネフ社のロゴは時間の経過と共に四回変わりました。今のロゴは1972年、新しいカタログを作る頃から使われ始めました。

クラーセンのおもちゃの魅力とは

私はお客さんのところで、クラーセンと知り合いになりました。彼は「3Dミューレ」を見せてくれ、それが長い間よく売れたものです。

クラーセンは、人としても、デザイナーとしてもすごく評価できる人間です。つまり、クラーセンはキュービクス、セラ、アングーラそしてダイアモンドという彼の一連の作品によって、ネフのコレクションをよい方向に影響を及ぼし、ネフのモダンなイメージに貢献しました。 キュービクスは基本的には赤・青・白木の3タイプでした。あの美しいグラデーションはクラーセンの考案です。

会社が大きくなるにつれて、私はクリエイティブな部分に携わるより、会社運営に力を入れざるを得なくなりました。デザインはクラーセンや若い者に任せ、私の役割はそれらの中から優れたものを選びとること、そして、生産と市場を準備することに専念するようになりました。

1965年までは、子どもと大人のためのおもちゃでしたが、クラーセンと共にプレイアートの路線をとり始まりました。また、クラーセンのほかにも、世界中にデザイナーがいます。 あなたのところの相沢康夫(本誌にて「絵本とおもちゃの日々」を連載していた漫画家でもある)をはじめ幾人かの日本人もその中に含まれます。

この人たちがネフ社にアイデアを持ち込んだのは、彼らのデザインしたものをよい品質にしたかったことと、ネフ社というネームバリューによるものです。 また、ネフ社はいつもデザイナーの名前を「カタログやパンフレットに載せていますから、優れたデザイナーが集まって来るのです。

「アイザワ」は、おもちゃと遊びが自分の人生の一部だということが見えている大変有能な人です。だからこそ、彼はマジシャンのようにおもちゃを見せることができるのです。これがあなたの店(百町森)で、ネフのおもちゃが売れる理由なんですね。 とてもすごい人を見つけたあなたにおめでとうと言います。

それから私は、60歳の時に後継者を見つけ、ネフ社を売る決心をしました。その人たちは私の理想と同じように、ネフ社を前進させようとしていました。私はお気に入りの仕事や、新しいおもちゃのデザインをするために、もっと時間や休息が欲しくて責任を少し軽くしたかったのです。

ネフ社の理念は変えられない

ネフ社は、他の木のおもちゃメーカーより、常にオリジナルな特長のあるおもちゃを作り続け、印象づけてきました。ネフ社は決してコピーをせず、常に第一線に立って新商品を作ってきました。 優れたデザイン、高い遊びの価値、抜きんでた品質がネフ社を世界中に知られるようなブランドにしたのです。

しかも、できるだけ値段を低い状態に保つこと、それはいつも私たちの願いですが、精密な手工業的生産には限界があります。優れたデザインは、いつも優れた品質を求めます。 しかし、合理的な生産にもかかわらず、コストがかかってしまうものです。手工業的なやり方には技術が伴うので高い賃金を払わなければならないし、材料は最高級の堅い木材ときていますから・・・・・・。

まだ会社が私のものだったとき、いつも私の目標は、子どもから大人まで世代を超えて喜ばせることのできる優れた品質のおもちゃや遊具の魅力的なコレクションを提供することでした。たくさんの家族が、孫の世代に手渡していくために、ネフのおもちゃを集めています。

バーゼルやチューリッヒのハイマートベルクという、国内の手工業を援助するという民間の組合組織があり、ネフのおもちゃが長い間売られていました。それは個人的な人間関係を大事にするおかげだったと言えるでしょう。

―今、子どものおもちゃについてどうお考えですか。例えば、今の木製おもちゃ業界や、いわゆる教育玩具と言われるものについて、どう思われますか。

ヨーロッパでの木のおもちゃの市場は、生産者の数が増え、狭くて難しいものになりました。学校や幼稚園でも需要が減っているし、官庁の予算も減らされてきました。

しかし、新しい時流についていくために、コンピュータにはたくさんの予算が使われています。三歳児向けの小型コンピュータが提供されたりするという具合です。

家での遊びが減ってしまい、子どもたちがますますテレビ漬けになっています。子どもの自由な時間に親は何をしてやればよいのか、判断を下すのは難しい時代なのです。

テレビのコマーシャルで出ているものや、隣の子が持っているものが欲しいという子どもたちに、親も流されてしまいます。私は子どもの要求に対して、教育的な玩具(注2)が今でも必要だと考えています。 小さな子どもは、簡単な形を手を使って理解し、遊びながら空想を自由に膨らませます。しかし、大きな子どもにとって電気的なおもちゃが魅力的だということは理解できるし、真似したくなるのも無理はありません。 どんなにいい教育がなされても、結局子どもは大人を見て育つのですからね。だって、お母さん・お父さんが仕事上でも、あるいは家庭でもコンピュータを使っているのが現状ですから。

(注1)ネフスピールについてのこの部分は、原文では「角度を45度変えた以外」となっていますが、詳細についてはわからなかったので、こんな訳にしておきました。

(注2)私たちの質問の意図は、日本でよくある「知育玩具」と呼ばれるような、「遊び」より「お勉強」、子どもの自発性より大人のおしつけのようにとられがちなおもちゃについて、私たちの持っている悩みをぶつけてみることでした。 しかし、ネフさんは大変素直に教育という言葉を受けとって下さいました。そのストレートさに私はいよいよクルト・ネフという人物に感服してしまいました。 もしかすると、それはヨーロッパの言語(あるいは「風土」)の持つシンプルな、それでいて大きく包みこむような特性によるのかもしれません。

(「げ・ん・き」第60号、柿田友広)

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